生きることが辛くなっているときに、さらに辛いことが起きるから
生きていて楽しくない。でも僕らは生きなきゃいけない。
「僕には生きる意味があるのかな?」と思うのだが、それに向き合うと涙が出るから、やめておこう。
相変わらず、僕の人生は暗そうだな。
暗い未来しか想像できない
朝起きて、テレビのニュースやツイッターのタイムラインを見ていると、不満と悪口ばかりが流れてくる。
そして、嫌な仕事を気に入らない上司と一緒にこなしていく。理不尽なことで怒られ、上司の奥さんの愚痴を永遠に聞かされるのだ。
今年は入ってきた後輩は、いつも下を向いていて声も小さい。顔の近くまで耳を近付けないと聞こえないくらいで、見ているだけでイライラしてくる。
ようやく家に帰りテレビやツイッターを見ると、この世界の未来が暗いことは容易にわかってしまう。
それなのに、自己啓発本では明るい未来を生きようとか、今のあなたは幸せだとか、無責任なことをいってくるので、「それはお前の周りだけ」とイライラしてしまう。
こんなことでどう未来に希望を持てと言うのだろうか。
全てが嫌になる
暗い未来のことを想像していると、また暗くなるようなことが起こるものだ。ちょうど嫌いな奴を想像していると、そいつからラインがくるような感じで。
僕が少ない貯金を記した通帳を眺めていると、すぐに来月のクレジットカードの支払いがトンデモナイ金額だということで頭を悩ませる。
「今月そんなに買い物したかな?あ、友達の誕生日があったんだ」
誕生日なんてものにいちいちものを買ってはいけないと思う。得られるのは相手の笑顔と欲しくもないお返し、そして来年のプレゼントを買わないといけない権利だ。
「プレゼント買わないとだから、今月ピンチなんだお金かして」という人までいる。
それなら、みんなが欲しいものを自分で買い、プレゼントなんてやめればいいんだと思うのに、それを止める気配がないので、相変わらず僕も続ける。
お金が出て行くときはとことん出て行く。変な出費と、不必要なプレゼントはいつも重なるものだ。
こんな風に嫌なことを想像すると嫌なことが起こる、これを世の中は「引き寄せの法則」と言うのだろうか。
でも、生きなきゃいけない
相変わらず嫌なことは起こるのに、僕は生きないといけない。
理油は二つだ、
「死ぬのが怖い」「親が悲しむ」
たった二つなのに、この壁がやたらと大きい。
朝5時に起きて支度をし、満員電車に揺られ、嫌な上司に愛想よく挨拶をし、夜遅くまで愚痴と不満と聞き続ける。こんなに嫌なことも楽に感じさせるほどに壁は大きい。
そして僕は壁を壊そうともしないのだ。
オトナとはそういうものだという教育をされた僕は壁を壊すこともなく、ヘコヘコして生きることができる。
これは実に立派なことだと思う。アーティストが人気になるのを一緒に喜び、芸能人が不倫されたら一緒に怒る。
政治家がいつも不祥事をおこしてくれるから、退屈になることもない。いつも怒っていれば生きる理由ができるのである。
そう僕がいくる理由はみんなを盛り上げるためだ。人のためにいつも喜んでいよう。いつも怒っていよう。悲しんでいよう。。。
そう思うと涙が溢れる時もある。
「僕は一体何者なのだろう?」これは純粋な疑問なので、涙が出るはずがない。
でも、涙が止まらなくなる。
自分とはなんなのか?
「僕が生きる意味ってなんなんだろう?」「その存在価値は?」
この問いを自分に投げかけると、すごくしんどくなる。どうしようもない劣等感と答えのない問題に頭を抱えてしまう。
こんなことなら、嫌な上司の付き合いで釣りに行けばよかったと思うほど。
考えれば考えるほど重くのしかかる問題にいつもは逃げてしまう。暇そうな友達にラインを送り遊ぶ予定を立て、すぐに出かける。
車で好きな音楽を聞きながら歌う。そのこと以上に大事なことはない。だから問題は後回しだ。また時間のある時に考えよう。
そうやって、いつも逃げてきたけど僕も20歳になった。これは実に重大な問題だ。
涙が出るほど難解だが、向き合わないといけないのだと思う。僕は生きる道を選んでいるのだから。
僕は生きることに真剣に向き合おうと決めた。
最後に
人は向き合わないといけない問題は後回しにして、どうでもいいことにいつも悩まされる生き物です。
「自分のことを後回しにしてしまう」これは僕らが向き合うべき、本当の問題です。
そのことを思い出す必要があります。
今の辛い生活をみてください。現状のまま生きることがだれだけ辛いことかわかりますよね。
だから向き合う必要があります。僕らは生まれて死ぬだけなのかもしれないですが、感情を持っています。
この生きている間、楽しければ楽しいし辛ければ辛いのです。
だから何としてでも楽しいにしないといけません。
学生時代みんなで作り上げた学園祭の時のような感動をいつまでも感じて生きていきたいものです。
そのために自分と向き合い、歩き出しましょう。僕らは生きている。